最近、司馬遼太郎の本を読んでいる。
司馬遼太郎は徳川家康についての本を三部作書いている。
上・下巻から構成されるものや、上・中・下巻から構成されるものもあり、合計8冊になる。
徳川家康という人の生い立ちから、その大一番を演じた関ヶ原、はたまた徳川の世の中を定める大阪冬の陣、夏の陣まで。
歴史上類を見ないほどの嫌われ者が、どのようなことに気を配りながら、幕府を開くまでに至ったのかがわかる。
今、「城塞」という本を読んでいる。
これは、大阪冬の陣、夏の陣を描いたものである。
その時代は、家康はすでに70歳となっている。
その頃の70歳といえば、現代の70歳とは大きく意味が異なる。
人生50年の時代であり、彼の部下の殆どがこの世を去っている。
現代で言えば、人生100年時代なのだから、120歳くらいのイメージだろうか。
彼がそれだけ長生きできたのは、彼自身が医学に精通しており、その理論を実際に実行したことが大きな要因だろう。
鷹狩といって、その時代のスポーツに時間をかけて取り組んだ。
年をとってからは無理をせず、疲労が溜まったときは、疲れをためないうちに積極的に休養した。
その頃の家康は、世の大名からしたら、魔王のような存在であったのではないだろうか。
戦国の世の中を走り抜け、織田信長と同名を結び、豊臣秀吉は戦で打ち破っている。
そもそも合戦をこなしてきた武将という存在が少なくなっているのである。
それだけの経験を積んできた家康のことを、世の中は恐れていたのだ。
そして、ここで現実に戻るのだが、現代の世の中では、歳を重ねている人が尊敬されない世の中となっている。
その事自体が非常に不思議だ。
なぜなら、年令を重ねていればそれなりの経験をこなしており、家康のように魔王のように離れなくとも、長老のようにはなっていてもいいのではないかと思うのだ。
しかし、周囲を見回してもそのような存在は多くない。
殆どの年寄は、孤独に年をとっていく。
その経験を語る場所も、聞きたがる人も存在しない。
非常に寂しい世の中になったものだなと感じてしまう。
それはなぜか。
原因を色々と考えてみたい。
一つは、年寄りに問題があり。
もう一つは、若者にも問題がある。
結論から言うと、つまらない人生を送ってきたことに寄るのではないだろうか。
こんな事を言うと起こられてしまいそうだが、生きていながら、ものを考えてこなかったのだろう。
ものを一つ一つ感がることができていたら、いろいろな成長や発見があったと思うのだ。
正しいことを信じる人がいる。
しかし、そのような人たちは、周りから押し付けられた、ものさしの上での正しさを馬鹿真面目に信じているのだ。
それでは、思考停止になってしまう.
ものを考えなくなったときに、人間としての成長は止まると思う。
会社勤めを続けている人が多い。
会社員では、自分で考えることなく、上の考えを仰げば解決してしまう。
その時時で、最適な解は何かと頭を働かせることをしない。
そのような思考停止の状態で、ぼんやりと生きたところで、何も解決にならない。
だいぶ極論になってしまっているが、自分自身もその様になるリスクがあると思う。
周りに流されず、気をつけて生きていきたい。