歴史を振り返るとき、と書き出すと大層なことが書かれるのではないかと予期させるが、実際には歴史小説を読んだときのことだ。
歴史を振り返るとき、それは社会の授業のような年表の暗記や穴埋め問題を埋めることではない。
それは、その次代を生き抜いた人々の感情を追う行為だ。
その人が何を感じ、何を考えどのようにいきたのか。
そのことを学ぶことにこそ意義があるのだと思う。
最近特にそのように感じる。
振り返れば、学校の授業で行われる歴史の授業などは、まったくもって意味がない。
貴重な青春時代に単に、暗記をするだけではもったいないと言えるだろう。
例えば、歴史の授業が、その時代背景や、経済状況、周囲の勢力図、それら諸々の要素を鑑みて、その当時の人物としてどのように行動を起こす必要があるのかを考えなくてはならないのだ。
それこそがほんとうの意味での歴史の授業であるのだと思う。
例えば、歴史上の人物。
そうだな。
石田三成の立場にあったとしよう。
もしあなたが石田三成であるのであれば、徳川家康と戦うときには何に気をつけなくてはならなかったのだろうか。
武田信玄だったとしたら、どうすれば天下を物にできたのだろうか。
そのようなことを分析することで、現在の自分のお枯れている環境を俯瞰して観察できるのだと思う。
石田三成であれば、豊臣家に恩返しをするべきというような観念で生きるのではなく、ひたすらに現実主義であるべきであったし、武田信玄であれば、貿易港を早い段階で統治下に収めるべきであったのではないか。
そのようなぶんせきをするためには、当時の勢力図や実際にどのようなことが起こったのかを冷静に分析し、失敗の本質を突き止めていく姿勢が重要だ。
アホみたいに戦争をしてはいけないとくり返し唱えるのではなく、どうすれば戦争に飛び込まずに住んだのかを考えることだ。
小さな国がわざわざでかい国を相手取って戦争する必要はない。
それは、当然幕末の長州藩でもおなじことであった。
攘夷が高まり、勢いでイギリスに戦争をふっかけたわけではない。
そのうらには、外国に戦争をふっかけることで、幕府の力を削ぎ落とそうとするような姿勢すらあるのdあ。
これは、最近読んでいる司馬遼太郎先生の小説、「世に棲む日日」を読んでいて感じることだ。
当時の志士たちは、攘夷が本当に正しいとは感じていなかった。
重要なのは開国することだ。
しかし、現状単に開国するだけでは結局幕府の力が強くなるだけで、近代日本の幕開けにはならない。
攘夷を行うことで、世の中の流れを動かし、幕府をたおす。
そして、欧米列強に吸収されずに棲むための方法を必死に論じたのであった。
世の中の雰囲気とは、必ずしも正しくない。
というよりも、殆どの場合間違った方向に進むことが多いと思う。
頭のいい人たちが、ある程度の方向に誘導しようとする。
そして、それは成功する。
しかし、どういうわけか、一定の範囲でとどまらずに暴走してしまう。
走り始めたら止まることができない。
頭の良い人であれば、このあたりまでだなというような考えも湧くかもしれない。
しかし、世の中の多数の人間は自分の頭で感上げることなく、世の中の雰囲気に沿って動く。
そうなってしまえば、ある方向に加速し続けるだけで、あとはどうすることもできない。
そんなもんだ。
世の中の流れとして、本業プラス副業の流れが高まっているように感じる。
誰も彼もがそのようなことを言い始めているような印象を受ける。
実際にはまだまだ少数ではあるが。
そのながれも、どこか危ういものを感じる。
やはり、流れというものは恐ろしい。
自分の頭で考え判断できるような人間になりたいものだ。