フランクリン・ローズヴェルトは第一回大統領就任演説で、「我々が恐怖すべきことはただひとつ、恐怖そのものなのである」と語っている。
恐怖は行動に対する制限となる。
逆に言ってしまえば恐怖や不安を残しておけば行動しなくて済むのである。
そして、多くの人は不安なことや恐怖を抱く対象があったとしても、それを解決しようとはしないのである。
問題に対して、前向きに解決しようとする人間は強い人間であると思う。
世の中が、そのような強い人間が大半であれば、歴史上繰り返されてきた悲劇は起こることがなかっただろう。
しかし、現実には弱い人間が大半だ。
私自身も弱い人間であることを自認している。
弱い人間であるからだめだというような話ではなく、ほとんどが弱い人間であるので、行動や変化を起こす努力が必要になると思っている。
弱いがゆえに、普通にしていると、水が高いところから低いところに流れるように、楽な方に流れる。
現状を変えずに続けている方が間違いなく楽だ。
しかし、人類の積み重ねてきた文化や知識は、現状維持を否定する。
実際にどのような対応を取ればいいのか、ほとんどの人はスマホで調べればわかる。
しかし、行動を起こすことはできない。
そして、方法はわかっていてもできない自分を正当化することに忙しくなってしまうのだ。
自分の弱さを正当化していることにも目を向けるのが嫌な人は多いはずだ。
そのような人たちの救いの手となるのが、宗教ではないかと思う。
「自由の刑」とは、フランスの哲学者サルトルが語ったことばである。
人は、自由を求めるが、自由であることに不安を覚える生き物である。
自由に行動した結果が、全て自分の責任となって帰ってくることに対して恐怖を抱くのである。
これは、リベラルな世の中が、能力主義であり、その中で自分の思うように生きることができないのは、全て自分の能力が足りないからだと言い訳することができないことに通じる。
誰かのせいに資することは楽なのだ。
自分の行動の責任を「親が悪い」とか「社会が悪い」とか言うのと同じことだ。
多くの成人は、そのような形で責任転嫁をすることはみっともないことであると認識している。
それが故に、何を信じて行動していいのかわからず、行動を起こすことができないでいるのだ。
もし、自分にとって絶対的な「なにか」が、自分の行動に対する指針となってくれるのだとしたら。
それ自体はものすごく幸せなことではないだろうか。
今の日本の流れは、新興宗教に対する風当たりが強い。
それは、オウム真理教の事件などに由来するのだと思う。
オウム真理教だろうが、幸福の科学だろうが、仏教だろうがキリスト教だろうが、その本質は変わらない。
要は、自分の行動に対する指針がほしいのだ。
自分の抱える不安に対して明確な答えを導き出してくれる「教え」を欲しているのだ。
くり返しいうが、人間は弱い生き物である。
そのような弱い人間がよりよくこの世の中を生きていくため、宗教が必要なのだとしたら、私はむしろ肯定した問と思っている。
それは、私自身の経験もある。
私は、医療の現場に携わっている。
昔の話であるが、末期のがん患者を担当したことがある。
その方のリハビリを行っていたのだが、少し動くと酸素の量が減ってしまい、すぐに苦しくなるような状態だった。
ほとんどの人は、そのような困難な場面では、体を動かすことに対して、消極的になってしまうのだ。
しかし、その方は創価学会員だったのだ。
創価学会では、困難な場面にあたっときに、どうすればよいのかということも語られている。
その方に、どうすればいいのか、きいてみると明確な答えが帰ってきた。
そして、本人にとって大変なリハビリにも負けずに取り組んでいた。
これは、普通の弱い人間にできることではないと思う。
宗教があるがゆえに、自分の頭で考えずに操り人間のように理想の行動を取ることができたのだ。
ある意味では、自分の主観から抜け出すことができた瞬間なのかもしれない。
高名な政治家や、経営者、歴史上の偉人も、自分を俯瞰して眺めることができ、自分自身を操り人形として思いのままに動かすことができたと語る人がいる。
矢沢永吉が「ヤザワは納得しない」と自分自身の別人格を作り出した方法ともにている。
そのままの自分ではできない、困難なことでも宗教の操り人形になってしまえば達成することができるのだ。
これが、いい方にも、悪い方にも転がることがあるというだけだ。
宗教を否定する人は多い。
しかし、実際には宗教と同じようなことを日常で送っていることは多い。
エスカレーターの左側に乗るとかも似たようなものだろう。
ただ、わからないものだからと言って否定するのではなく、宗教とはどのようなものであるのかを、冷静に見つめていきたいものだ。