世の中には、強い人間と弱い人間がいる。
その比率は、だいたい8対2といわれている。
ここで言う、強い人間とは現実を直視し、行動できる人間のことだ。
逆に、弱い人間とは、幻想の世界を生きる人達だ。
リハビリをやる上で、その事を忘れてしまいがちになる。
しかし、人の大半は弱い人間だという前提でアプローチすることで、結果が異なるなずだ。
みんなわかっている
どんな人でも、正しい答えはわかっている。
痩せたいなら、運動と食事制限。
障害を克服するためには、十分な栄養と睡眠、そして地道な基本動作練習。
それができるのであれば、リハビリテーションスタッフというものは基本的には必要ないと思われる。
しかし、それができないのだ。
なぜなら、人間というものはそういうものだからだ。
現代を生きる人たちは、けんこうに生きるためにはどうすればいいのかは、スマホを少しいじればすぐにわかる。
しかし、正しい答えがわかったところで、弱い人間一人では、それを実行することができない。
これはどのようなことでも言えることだろう。
問題を問題と認識したときには、大半のことには答えが出ている。
「夢をかなえるゾウ」のなかでも説明されている。
お前の悩みが、人類の中ではじめてうまれた悩みだとでも思っているのか?
その悩みを同じように悩んだ人間はいるはずだ。
先人の知恵を借りるのだ。
いいか。悩みがあったら図書館にいけ!
その通りだ。
正しい答えを出すことでななく。
それをどのように実行するのかが問題なのだ。
医療制度は、その問題をセラピストをつけることで解決した。
セラピストの役割を正しい治療を提供することと考えるのは短絡的だ。
本当に求められているのは、弱い人間でも単純な反復練習をこなせるようにサポートすることだ。
高い技術など求められていないのだ。
サポートがあっても現実をみたくない人がいる
セラピストのサポートがあれば、大半の人は退院までこぎつけることができる。
それは、病院という環境があって実現することだ。
病院という環境から開放されたあとは、また別問題だ。
病院という環境での、強制的なセラピーは非常に効果的な仕組みだ。
よくできていると言わざるをえない。
入院期間が短縮されていることを問題視する人もいるが、それは割愛する。
在宅に戻ったあとは、また別問題だ。
競技が違う。
病院と同じ感覚で、在宅のリハを行ったとしても効果的なリハにはならない。
セラピストの役割を思い出してほしい。
専門性というよりも、地道でつらいリハビリをコツコツやらせるのが、セラピストの役割だ。
毎日、3時間ほど監視する。
そのような環境では、どんな弱い人間でも良くなっていく。
しかし、在宅では?
地道で辛いことをやらせる方法は通用しない。
なぜなら、一週間で最大2時間しか監視できない。
病院のリハビリよりも、患者をリハビリに縛り付けるという視点では、難易度が別次元で高くなるのは容易に想像できるはずだ。
病院の場合、文句があっても大半の人はリハビリのメニューをこなしていく。
囚人と同じようなものだ。
自分の命や健康を人質にとり、やりたくもない運動をこなさなくてはならない。
文句が出るのも当然だ。
しかし、一定の割合で、あのような環境でもリハビリを拒否する人間は存在する。
その人は、弱い人間であるのだろう。
現実ではなく、優しい嘘を見たい人たちだ。
時間があるのであれば、嘘をみさせてあげたいところだが、病院という環境では、時間に限りがある。
どのような方法であっても、退院にこぎつけなくてはならない。
現実を突きつけるのではなく、優しい嘘に包んで上げる必要がある。
しかし、国家資格のセラピストの場合、対処方法を考えなくてはならない。
非科学的な姿勢を取ることはできないからだ。
一方、生活期の場合はどうだろうか。
理想としては、障害という現実を受け入れ、新しい自分として前向きに生きられるようになってほしいと思うのだが、すべての人がそうはならない。
その状態を諦めると捉える人がいるのも事実だ。
元の状態に戻ることを諦める。
その姿勢がいいか悪いかを論じる気はない。
諦めなければ、いずれはもとに戻る。
そのようなことを言うつもりがない。
正直そのようなことを言うやつはアホだろう。
切断された足が、また生えてくるわけがないだろう。
医療は万能ではない。
アタリマエのことであるが、進歩した医療技術を前に忘れられていることだと思う。
なので、元の体に戻ることを目標にしたところで、つらくなるだけだろう。
そのような姿勢を取り続けたところで、壁にぶつかり続ける。
そして、いずれ諦める。
諦めたあとに、前向きに捉えられるかどうか。
諦めずに、壁に立ち向かい続けるのもいいのかもしれない。
その姿勢が明るく幸せなものであればだが。
頑張れば元の状態に戻ることができる。
それは、幻想だ。
失敗しても、取り返しがつかないものというものが世の中には存在するのだ。
しかし、心が弱い人間に現実を突きつけたところで、効果はない。
それならば、セラピストにできるのは、優しい嘘で包んであげることなのだろう。
そして、本人が自分で気がつくのを待ってあげる。
それは、病院ではできないことだ。
時間の制限がない、在宅だからこそできることだと思う。
セラピストとしては望ましい姿勢ではないのかも知れない。
正しい説明と同意も取ることができない。
正しい説明をすることは、夢を夢だと説明するのに等しい。
現状の制度と、人間の本質の不適合さがそこにはあるのだ。