雑記

常識を疑うことが考えることへの第一歩

医は仁術。

これは、江戸時代に盛んに用いられた言葉である。

医療に対しての前提のことだ。

仁とはもともと儒教の言葉で、おもいやりやいつくしみといった意味を持つ。

しかし、ここで求められる意味は、医療従事者は営利を求めてはならないというような意味合いにかわってきた。

現在、医療従事者は重労働の割に見合わない報酬体系のせいで、離職が増えている。

医は仁術の末路が現状のあり方だ。

そもそもの前提が、誤っている可能性というものがある。

いままでは間違いではなかったが、世の中が移ろっていくうちにずれが生じることもあるはずだ。

理学療法士の前提とはなんなのか。

医療的な技術と、たゆまぬ努力。

勉強するのが当たり前の業界。

しかし、本当にそうなのだろうか。

医療従事者は勉強し続けなければならないのか。

そもそもの制度設計はどうなっているのか立ち返ってみたい。

療法士の仕事は、一時間いくらというような報酬体系だ。

他の医療従事者も同じような設計になっているはずだ。

保険下の報酬体系はどこもそのようになっているはずだ。

そもそも療法士の報酬体系は個人のスキルを高めることに価値を求めていない。

そもそも、科学的な医療というものは、個人のスキルに左右されるものではない。

誰がやっても同じような結果になることが前提だ。

つまり、個人のスキルを高めることは制度設計上、求められていない。

科学的な裏付けの高い、運動療法を患者に指導するのが、理学療法士の役割なのだ。

筋膜リリースだとか、個人的なスキルよりも、誰でもできる効果的な運動療法を提案するというものが、本来の理学療法士の姿だったと思う。

学校教育でも、個人的なスキルを高めるような教育はされていないはずだ。

勉強や実技練習を積極的にするよりも、疾患に対する科学的な根拠の高い運動療法は何なのかを調べることのほうが重要なのではないか。

療法士の提供するセラピーとは、科学的な根拠をもとに提供している。

それならば、歳を重ねても提供するセラピーはすべて一定であるものだ。

であるがゆえに、一時間あたりの報酬が経験年数に比例していかないのだ。

一年目と10年目のセラピストの報酬体系が変わらないのは、科学的な根拠をもとにしたセラピーであるからだ。

科学的な根拠があるがゆえに、病院内でのポジションを約束され、科学的な根拠をもとにしているがゆえに、報酬が変わらない。

制度上、求められているもの以外のことに対して力を尽くしてしまう。

本来であれば、過剰供給であるが、患者のことを考えるとそれが当たり前になっている。