雑記

本を最近は読みっぱなしになっている

記事を闇雲に書くことはそれほど苦ではなくなった。

しかし、文章の構成をある程度考えて、記事を作るとなると、仕事の後だと脳みそが思ったよりも働かない。

これは、日中の仕事に思いの外、体力や疲労感を持っていかれているのだと思う。

リハビリの仕事の場合、同じ仕事の内容でも時間が短縮されることはない。

決められたノルマは、一日に何時間働くことであり、実際には成果型の報酬とはなりえない。

一時間のリハビリでいくらという報酬体系では、時間の自由は永遠に得られないだろう。

ゆえに、仕事の習熟度が上がったとして、一日の疲労感は大きくは変わらない。

そもそも、それほど消耗するような仕事環境ではないのだ。

ムカつく同僚や仕事を押し付けてくる上司はいないので、それほど精神的には削られていないのだろう。

つまり、自分の労働できるキャパシティが小さく、そのキャパシティを上回るような仕事をしているのだと思う。

自分は自分の限界を越えるような働き方はしてきていないと自覚している。

時間外労働も、遅くまで残っているときもあったかもしれないが、殆どの場合それほど残業をしているわけではない。

よくいえば要領よくやっているとも言えるし、悪く言えば手を抜くときはきっちりと手を抜いているとも言える。

ブログの内容もどんどん薄くなっているようにも感じる。

そんな中でも読書だけは続けている。

純粋に本を読むことが楽しいからだろう。

そして、読もうと思って積んでいる本がどんどん山になっていく。

なかなか減っていかないようなものが多い。

本屋の店先で売っているような、やたら行間が広く、内容能仕様な本であれば、読み物として簡単に楽しめるので、簡単に読み終わることができるのだろうが、字が小さく行間が狭い本はなかなか読み終わらない。

そして、読んだとしても読みっぱなしになってしまいがちだ。

せっかく読んだとしても、自分の中に残るものがなければもったいない。

読書をするたびに、メモするかツイートするか。

何らかの形でアウトプットするようにしていきたいところだ。

文章に起こすだけでも、だいぶ頭の中に残ろうし、人に話すとさらに考えが深くなる。

最近読んだものでは、司馬遼太郎の城塞という小説の中の一節であるが、正邪をもとに判断するのは、簡単でなおかつ、その主張は刀のように鋭い、それに対して李益をもとに考えるのはいろいろな要素を踏まえて比較検討しなくてはならないのでたいへんだ。というようなことを述べている一節があった。

その話は、豊臣家と徳川家の最終決戦にむけての話の中で出てくる一節である。

正しいか間違っているかでいうと、徳川はもともと、豊臣家に使えるような形をとっていた。

なので、徳川が豊臣を滅ぼすなど、正しくないことなのである。

周りの大名も、豊臣家に世話になっている家もあり、本来の世の正しさから考えれば、豊臣家に味方するのが正しい道なのである。

しかし、ほとんどの大名はそのようには考えなかった、正しさを追い求めていては、関ケ原の石田三成のように身を滅ぼすようになるのである。

そのような文脈から考えると、正しいか邪かで物事を考えるのは、簡単ではあるが、身を滅ぼすようなことにつながることがあるのである。

詐欺師が最初は正しいようなことを言うのもその方法なのだ。