雑記

関ケ原から学ぶ

司馬遼太郎の「関ヶ原」という小説を読んだ。

関が原の戦い自体は日本人であれば誰しも知っていることだと思うが、その実態については、ほとんどの人は知らないのではないかと思う。

なぜなら、自分自身が今日この日まで、関が原についての実態を殆ど知らなかったからだ。

自分が知らないことは、ほとんどの人が知らないことだというのもそこそこおこがましいことではあると思うがそれはおいておこう。

僕が、歴史の教科書で学んだ関が原は、徳川家康と石田三成が、日本の東と西に分かれて戦ったというようなことだ。

そのような説明だと、イメージするのは大群が西と東に分かれて激突する様子だろう。

これぞ関ヶ原の戦い。

と思うが、関ヶ原の戦いは、見かけ上の戦争が本分ではない。

むしろその戦争までの政略こそ、関が原である。

関ヶ原の戦いが起きるまでの調略が関ヶ原の戦いの本質だろう。

誰を味方に引き入れるか、どこを仲違いさせるかなど。

そして、どっちについたほうが自分にとって大きな利益を得ることができるのかという事を考えながら自分の立ち振舞を考えていく。

石田三成は、観念の人だ。

観念とは、辞書では「あるものについて抱く意識内容」と解説されているが、くだけていうと、「〇〇とはこうあるべきである」というような考えだと思う。

石田三成は、人は「義」に基づいて行動するべきだという考えが強かった。

そして、豊臣秀吉にみんな世話になったのだから、その子供をみんなで助けていくのが本来あるべき道だという考えが強かった。

なので、徳川家康との戦いに向かって突き進むときも、「今までの恩に報いるべし」の一本勝負だった。

しかし、徳川家康は違う。

人によっては、石田三成への恨みを煽ったり、人によっては、戦いに勝ったあとの温床を保証したり、人によっては戦うことが豊臣家のためだと話したりしていたのである。

つまり、相手にとっての「利」とはどこにあるかを徹底して考え抜き、現実的に相手を動かすにはどうすればよいのかを実行していった人なのだ。

自分よりも一回りも、二周りも年下の武将に対して礼を尽くすのを忘れないなど、本当に気をよく使う人であったのだと学ばされた。

この二人の動きや考えは象徴的なあり方を呈しているように思う。

政治の本質とは何か?

どちらの武将のあり方がより結果に結びつくのか。

今の日本の政治は、石田三成的だと思う。

観念をもとにして、報道しているような印象だ。

この考えは、政治家は日本全国民の事を考えて行動するべきだ。というような認識を与える。

これは、誰が悪いというわけではないが、おそらくコメンテーターが訳知り顔で解説するのをマスメディアが垂れ流すことにより、そのように国にとって良いことをするのが政治家のあり方だと誤解させてしまっているのだろう。

本来であれば、政治家とは自分の関係者に利権を生み出すのが仕事のようなものであるのにだ。

政治家は自分を応援してくれている支援者に利益をもたらしても、自分の反対勢力を応援している団体に利益を与える必要はない。

徳川家康は、石田三成荷加担した武将は処刑している。

選挙に負けても処刑はされないが冷遇されるのは当然のことだ。

コロナの関係で、フリーランスを助けてくれ!と政治家にいっている人間はそもそも的外れで、平常時に国会に議員を排出していない団体が、あったこともない国会議員に懇願したところで時間の無駄でしかない。

普段は政治活動をしていないのに、困ったときだけ助けてくれというのは的はずれであるというのは誰しもが納得するようなことだろう。

しかし、最近は観念を重要視するような世の中になっているような気がする。

それは、確かに一定の人間にとっては都合のいい流れかも知れない。

市民が市民として自立しているよりも、民草としてなんとなくの雰囲気に流されてくれている方が、力のある人間にとっては都合がいい。

それにしても、投票率が40%ととかってことは、だいたい⑩%くらいの人間のためにすべての利益が考えんされているということになるのではないだろうか。

選挙に投票していない人間が、政治を批判するのは甚だおかしな話だと思う。

それと同時に、やはり選挙に行かない人間は、政治家は国民にとって最大利益のあることをするものだ、という観念の中を生きているのだ。

国民のためにならないような政治は、政治家が悪いのであって、国民は悪くはないと思っているのだろう。

やはり、政治家は頭がいいし、優秀だ。

問題があるのはどこから考えても国民であるのに、メディアは国民を不快にするような真実を報道することはなく、国民のほうが賢いかのように誘導する。

国民はマスメディアからの接待を受けながら、今日も観念の中を生き続けるのである。