今までアタリマエのことが当たり前ではない世の中になっているように思う。
その原因としてあげられるのは、人間関係や考え方の広がりだろう。
インターネットの発達により、合うことも話すこともできないような人の話を聞く機会が増えている。
YoutubeやSNSが代表例だと思う。
そのような発信の場により、自分たちの常識を疑う機会を得ることができている。
それがいいのか悪いのかは一概にはいえない。
自由に自分のやりたいことに挑戦できる世の中になってしまったことで、言い訳ができない世の中になっている。
自由になりたければ、自由になる努力をしろと。
それができないとすれば、全て自分の能力が不足していることが原因となってしまう。
橘玲さんの本でも、上級国民と下級国民を分けるものについて、経済力をあげている。
その経済力も、昔は、もともと金持ちの家計ではないとお金持ちになれないと言われていたが、例外がバンバン目に入るようになっている。
そのため、その領域に踏み入ることのできない人間は、全てその人の能力が足りないことが原因となってしまう。
これは、いいことでもあり、不幸なことでもあるだろう。
否が応でも自分の能力を突きつけられるのは、正直つらいのではないだろうか。
自由になれない場合も、生きていくことは可能だ。
その道は、懲役40年の道だ。
会社に勤め上げ、定年まで働くという働き方が多くの人間にはあたりまえだった。
僕は、刑務所に入所していた経験のある人の話を聞いて、その常識がすべての人を幸せにしないと感じた。
そのひとは、通勤しているサラリーマンの顔よりも、刑務所に収監されている囚人のほうが生き生きしている。
その人は、世の中で誰にも迷惑をかけずに真面目に働いている人に比べて、刑務所に服役している人間のほうが幸せそうに生きていると語るのだ。
朝の通勤電車の階段の流れを見ているとたしかにそこには人間らしさというものはかけているような気がしている。
生気の失われた顔に、おぼろげな視線が漂っているようだ。
その多くの人からは、なんとも言えない無力感が漂っているような気がする。
そして、その環境に慣れてしまうと、自分もそれが当たり前のように感じていく。
まさに、懲役40年だ。
「ショーシャンクの空に」という有名な映画がある。
この映画では、囚人が出所するシーンが有る。
しかし、出所できる頃にはもうすでに生きる気力が失われている状態になっている。
生きる気力が失われているのを確認できたところで、外に放り出される。
現実では、生きる気力が失わされているのは実社会の方で、刑務所のほうが気力にあふれているとは皮肉な話だ。