雑記

正しいことを選ぶことが、ただしいのか

世の中の常識というものは、なんのために存在しているのか。

これは、共通の常識というものを作り出すことにより、考えることを減らすためだと思う。

共通の常識をしていれば、社会的な批判からは逃れられる。

批判を避けることはできても、自分にとって一番いい選択かと聞かれると、そうではないはずだ。

むしろ自分にとって、利のないことが多いように思う。

世の中の常識というものは、世の中にとって一番いい選択なのだ。

というと、それを選んだほうがいいように思うかもしれない。

だが、それは、今まで沢山の人が選んできた道だ。

少し昔であれば、そこそこ豊かな中流になることのできる道であったが、こと現在では、そのような結果は得られない。

現実は、2極化が進んでおり、どちらかになるかしかない。

そして、世の中には豊かではない人たちのほうが圧倒的に多いはずだ。

その人達が選んできたものが、世の中の常識となっているのであろう。

正しいことというものは、言うのはかんたんである。

例えば、「人が大切だ。」などということは誰にでも言うことができる。

それを否定することは、人を大切にしないよ言うことなのか?と問い詰められることになり、言葉に窮する。

一見、正しいことを行っているようではあるが、本当にそうなのだろうか。

与沢翼という男は、本の中で「人脈とは負債である」と断じている。

これは、この言葉尻だけを捉えてほしくはないのだが、むやみに膨張していく人脈は負債であると言っているのだ。

ほとんどの人にとっては、人脈というものを資産に変えることは難しい。

お笑い芸人のカラテカ入江という男がいたが、あのような人物は人脈というものを資産として活用することができたのだ。

それ以外の、普通の人間にとっては、人脈とは、金と時間を食いつぶす負債である。

この言葉に対して、非常に私は納得できるのだ。

経験上の裏打ちがない人が、「人が大切だ」などと語っているのを聞くと、同じ言葉でも薄っぺらさを感じざるを得ない。

むしろ、すごい人が「人が大切だ」と語るのは、本当に心からそのように思っているのではなく、相手に対して快く自分のために動いてもらえるような布石を打っているのではないかと思うのだ。

そのように考えるのに至ったのは、徳川家康という人の生き方を知ったからだろう。

みな、徳川家康という人のことを知っているとは思う。

しかし、織田信長や豊臣秀吉と比べて、人気がないように思わないか。

ただ、じっとチャンスが来るのを伺っていたと思われがちかもしれないが、この男、チャンスと見ると人間とは思えない働きをやってのけた。

そのあたりの詳しい話は、司馬遼太郎先生の本を読んでほしい。

非常にためになる。

特に歳を重ねてから読むと学ぶことが非常に多い。

今回は、その中の一節を紹介したい。

「城塞」という本の一節だ。

『物事を利害で考えてゆこうという頭のはたらきは、じつに複雑な思慮や分析力を必要とするが、正邪の方は判断も簡単で済み、しかもそれがことばであらわされるとき、短剣のようなするどさで相手に訴える。』

物事を利害で捉えると嫌われるフシがある。

しかし、それは、利害で考え抜くことのできない人間が、利害で考えることから逃避するための言い訳に過ぎないと思うのだ。

正しいとか、間違っているというようなことを誰が判断できるのか。

そのような曖昧なことをものさしにするよりも、一定のものさしを持って図ることのほうが、いい結末を迎えるように思う。

なぜなら、自分の観念の中だけで生きていた歴史上の人間たちがどのような結末を迎えるのかを知ることができたからだ。

人の間に起こることは大きく変わらない。

学校教育では、正しいことをしなさいなどといういい加減なことを教え続けるが、何が正しいのかなど人によって変わるのだ。

曇りなき眼で見つめ、決める。と何ら変わりがない。