理学療法

自分の能力の棚卸しはできているのか【理学療法士はやばいのか】

毎回、理学療法士の将来の話になる気がします。

そして不安を煽る人は多いです。

周りの人の姿勢に対して、危機感を感じ、行動につなげてほしいと言うような方もいらっしゃるとは思います。

しかし、そうじゃない人、多くは自分の商品を売りたい人には注意が必要です。

闇雲に不安になることはもったいない

先日、ネットワーク系の人が理学療法士の将来の不安を煽る根拠として、麻痺の治療の進歩の記事を上げていました。

麻痺の治療の進歩。

その記事では、脳インプラント技術についての記事でした。

脳の信号を、脊髄を介さずに抹消まで送り届けるのが脳インプラント技術でした。

なぜこの技術が理学療法士の不安を煽るのかよくわからないので、直接あって聞いてみたいですが、今回は想像で考えてみたいと思います。

この技術は信号を送る脳自体には損傷が生じたことを想定していません。

なので、疾患的には脊髄損傷を想定しているのだと思います。

脊損の人にとっては、この技術が生まれることは喜ばしいことです。

理学療法士にとっても、この技術が生まれることは喜ばしいことだと思います。

なぜ、この技術が生まれることが、理学療法士の将来にとって不安材料になるのかわかりませんが、おそらく、僕たちの仕事を奪われるのではないかというような不安なのでしょう。

しかしながら、僕はこの技術によって、理学療法士の仕事が奪われるとは思えません。

理学療法士は何をしているのか

理学療法士は何をしているのか考え直してほしいです。

例えば、事故で脊損になった人に対して理学療法士は何をしているのでしょうか?

リハビリという言葉は漠然としているのでやめてくださいね。

(ちなみに、リハビリテーションは日本語でいうと全人間的復権という意味。その人がその人らしく生きる権利を取り戻す過程という意味と解釈しています。リハビリするってざっくりしすぎですわ。)

機能的リハビリテーションや生活的リハビリテーションを提供している場合が多いのでhないかと思います。

もっと砕けた言い方押しますと、体の回復を手助けする理学療法と、今の体を上手に使うリハビリテーションがありますよね、というような考えではないでしょうか。

そのうえで、促通法や筋トレなど細かな技術があると思うのですが、おおきくわけたときにはそのような捉え方で良いのではないかと思っています。

そうなったときに、新しい技術が生まれることで、回復を手助けする理学療法は必要なくなるかもしれませんが、新しい体を上手に使う理学療法はより重要度を増すのではないかと思っています。

漠然と、不安になるのではなく、どの部分が新しい技術やAIなどで代価可能で、どの部分が人間に求められるのかをよく考えていく必要があるのではないでしょうか。

人間にしかできないことは、たくさんあると思っています。

そして、その人間としての要素をより求められるのが私達理学療法士だと思っています。

機械や技術で、人を勇気づけることはできません。

人間を勇気づけることができるのは人間だけだと思っています。

今、提供していることの価値がなくなることはよくあること

新しい技術によって、古い技術の価値がなくなるのはよくあることです。

発売当時は画期的だった、ガラパゴス携帯はスマートフォンに取って代わりました。

移動手段に車を使う人はいても、馬を使うことはありません。

僕たちの消費行動も同じだと思います。

古い商品を選ぶことは少ないですし、新しいものがより良いもであればそちらを選ぶのは当然のことです。

理学療法士が必死に身に着けた技術が新しい技術に置き換わることも何らおかしなことではありません。

患者にとっても療法士にとっても良いことだと思います。

新しい技術を踏まえた上で、理学療法士自体が不必要になったとしたらそれはそれで良いのではないでしょうか?

おそらく、未来の理学療法士は現在私達のイメージしている療法士の姿とは変わっているかもしれません。

今の療法士としての仕事はなくなっているかもしれませんが、未来の療法士には今とは大きく異る役割が求められるようになるでしょう。

電話交換手がいなくなったのと同じように、レジ打ちが必要なくなるのと同じように職業自体が無くなっていくことや、変わっていくことは何らおかしなことではありません。

変わることもあれば、変わらないこともある。

理学療法士としての価値は、たしかに治療的な技術の要素もあるとは思いますが、私は人間力も重要な割合を占めていると思っています。

よく、療法士が患者さんが自主練習をしないという場面に会うことがありますが、そもそもその解釈自体がいかがなものかと感じています。

「リハビリのやる気がない」という言葉もあまり好きではありません。

それらに共通する事項は、その人のリハビリをする目的が明らかになっていないからだと言えると思います。

そうしても、病院では患者さんが自分の体の状態を理解し、受け入れるまでに時間を要してしまいます。

それを待っていては、体にとって回復できる時間を失ってしまう可能性が高いです。

なので、本人の同意を得られないまま、「歩けなくなる」などの言葉で患者の尻を叩かなくてはならない場面があるということも理解できます。

しかしながら、人間を動かすためには、どのような要素が必要なのかを考えてみてほしいです。

人間が動くときは「大きな快」を求めるときだと思っています。

「大きな快」とは自分の欲求を満たすことができるものとでも考えてもらえばいいでしょう。

自分がこうなりたいと言うようなイメージが、目の前の嫌なことよりも強かった時に、目の前の嫌な練習に取り組むことができるのです。

なので、自主練習が続かないときや、リハビリの意欲がないときはその人にとっての「大きな快」は何なのかを一緒に考える必要がありそうです。

本人が自覚しているケースは少ないので、一緒に探していくというような市政が必要だと思います。

そして、自分自身にとっての「大きな快」は何なのかも合わせて考えておくと良いでしょう。

絶え間なく、進歩していくことが重要

療法士としての将来に不安になる人もいると思います。

大切なのは、今の常識にとどまらず、絶えず世の中に応じて変化していく姿勢だと思います。

今までの経験が役に立たなくなることもあるでしょう。

しかしながら、役に立たなくなるということは、顧客にとってはより価値のあるものが生み出されたということなのです。

療法士にとっては、患者が幸せになってくれる方が良いと感じています。

私達が患者に貢献できることは、常に進歩し続けることだと思っています。

常に進歩し、変化することができる人であれば、何ら不安になる必要はないのではないでしょうか?